修論書いた
先日修論を提出した。修論を書いた人間になったが、不思議な感じだ。1年半の休学と休学中の労働を経て、復学し提出までこぎ着けた自分に現実味がなく、不思議に感じている。
修論のタイトルは「感情を演出する高畑勲のリアリズム—―クィア・アニメーションとしての『かぐや姫の物語』」にした。良いタイトルなのか分からないが、「高畑」「リアリズム」「クィア」「アニメーション」の四つは入れたいと思っていたので、自分的には納得している。
修論の出発点としての問いは、「高畑勲はアニメーションのリアリズムを追求した監督にもかかわらず、『ホーホケキョ となりの山田くん』以降の表現の変化があってか、『かぐや姫の物語』をリアリズムの観点から論じるものがあまりないけど良いの?」「『かぐや姫の物語』はフェミニズム的に評価された作品だけど、主人公のかぐやをシスジェンダーでヘテロセクシュアルの女性だと決めつけてない?」という二つである。だけど、本当の出発点は高畑勲監督作品の登場人物って宮崎駿監督作品同様、飛ぶな~という気づき。
この二つの問いが出発点となっているので、修論の軸になっているのはリアリズムとクィアである。第一章から第三章までがリアリズムの話で、第四章が『かぐや姫の物語』のクィア批評(作品分析)となっている。目次はこんな感じ。
はじめに
第一章 映画のリアリズム(第一節 映画のリアリズム——アニメーションと写真(実写映画)の対立、第二節 アニメーションと写真(実写映画)は対立するのか、第三節 映画的運動)
第二章 アニメーションと高畑勲のリアリズム(第一節 (日本の)アニメーションにおけるリアリズム、第二節 高畑のリアリズムと非リアリズム的表現、第三節 従来の高畑的リアリズムにおける感情表現、図版)
第三章 空を飛ぶこと/泳ぐことのリアリズム(第一節 『赤毛のアン』における飛翔、第二節 『おもひでぽろぽろ』における飛翔=空を泳ぐこと、第三節 「映画的運動」としての飛翔、図版)
第四章 クィア・アニメーションとしての『かぐや姫の物語』(第一節 『かぐや姫の物語』公開までの道のり、第二節 概要と先行研究、第三節 クィア批評とは何か、第四節 かぐやの「変」さ、第五節 かぐやの「変」さのアニメーション表現、第六節 疾走のクィアネス、第七節 『かぐや姫の物語』における空を飛ぶこと、図版)
おわりに
修論でやりたかったのは、トム・ガニングの映画的運動を使って、高畑作品に頻出する飛翔という「非」リアリズム的な表現を、リアリズムの文脈で捉え直すことと、『かぐや姫の物語』の主人公かぐやをクィアな存在として語り直すこと。上手く書けたとは思わないが、問い自体は悪くなかったと思っている。
なぜタイトルに「感情を演出する」と付けたかというと、この飛翔の動力源が感情だから。加えて、従来の高畑的なリアリズムにおいても登場人物の感情ってけっこう重要な演出ポイントになっているのでは、ってことも論じているから。
こんな感じで修論書いたよ~!という記録でした。『かぐや姫の物語』の制作現場は褒められた労働環境ではないため(『かぐや姫の物語』に限らずどのアニメーション制作の現場も似たようなものかもしれないが)、第4章第1節公開までの道のりでその点にも触れています。